没入できない人間になってしまったかもしれない。
Twitterに人格を形成されてきたせいで、
何を受け取ってもXの入力画面が頭に浮かんでしまう。
こんなに熱量をもって熱量を浴びに行ったのに、熱量を100%で浴びれなかった自分に怒りが沸いた。
作中のカメラワークがどうしても気になる。
ドキュメンタリー的に魅せようと、
圧倒的な映像美を撮ろうとしたのは成功していてそれはそれは美しかったけれど
執拗なピントの移動、そしてあろうことか、
執拗な顔のクローズアップ。
「顔が芸を喰う」と言われる主人公を、且つ今まで散々顔を理由に芸を見てもらえなかった(要補足)吉沢を主演において、なぜこんなにも顔顔顔顔顔顔なの?
顔って多くを物語るし顔を画面いっぱいに映せばそりゃ迫力はでるさ、
でも演技って顔だけじゃないでしょう❓
それを一番歌舞伎役者(舞台と客席に距離があり、クローズアップでカメラに映せないからこそ所作で人物を表現する)がわかっているんじゃないのか?
歌舞伎役者を演じるために1年半かけて所作を学んだように、
ここに辿り着くまで10数年、芸を磨いてきたんだよ
そして劇伴。音圧で圧倒して緩急をつければ人を泣かせられる、その点素晴らしい劇伴だった。
音圧を浴びるたびに全部全部「どうだ、泣けるだろ」という傲慢な幻聴が聞こえてくる気がした。
音も映像も演出も含めて映画なのだけれど
あまりにも「演技が凄い」との事前情報を入れすぎて、演技に集中させてくれない余剰のように感じてしまった。
上下巻に分かれた原作をグッと映画サイズにまとめるべく、キャラクターや出来事を可能な限り削ぎ落とし、恐ろしいほどの映像美と喜久雄の人生に焦点を当てた本作。物語のテンポの速さに対して映像美のしつこさ、悔しかった。もっと描きたかったんだろうなぁ
もちろん、役者の演技は素晴らしかった。
横浜流星くん、これは比較する意図はないんだけれども彼の演技は吉沢を凌駕していたようにも感じた。あくまで助演に徹する芝居は、凌駕できるものにしかできない。そして終盤の“お初”は敢えて凌駕するつもりで挑んだのだと思う。
登場の一瞬でキャラクターをガチっと伝えていて、最後まで一貫して御曹司であり続けていた(もうなんかこんな言葉にするのが浅くてほんとに申し訳ない思いかいっぱい)
若手女優が最高だった。高畑充希さん、見上愛さん、森七菜さん。この3人でアカデミー助演女優賞さらっても文句ない。
高畑充希さんの登場した瞬間から香る色気、見上愛ちゃんのあどけなさから芯までの纏い…個人的に好きな女優さんなので、ここに肩を並べたことが誇らしいよ!
三浦貴大さん…めちゃくちゃ上手い。登場のやなやつ感がただのやなやつではないところにくるまでのグラデーションがうますぎる
吉沢亮さん。
「顔が芸を喰う」とかけられる台詞のとおり、綺麗な顔で覆われそうになったパブリックイメージを、「芸があるやないか」とかけられふ台詞のとおり、芝居で塗り替えてきた方。まさに喜久雄のように、芝居以外を全て捨てて芝居に捧げるような骨の髄までの芝居バカ。こんなに役と重なることってあるんだ。
年末の件をうけての今回の興行。芸で這い上がってゆく様。そして怪我の功名というべきか、2月公開予定だった映画「ババン…」が7月に延期になったことにより、演技の幅まで知らしめる結果になったいま。
ありがとう、おめでとう、どうか誰一人、彼から芝居を奪わないでほしい。
東半コンビ最初の演目がそれはそれは衝撃的だった。発声、所作が女方そのもの。人間ってこんなことができるんだ、と。
吉沢さんは性別を超えた美しさのある人間ではあるが、骨格はかなり男性的なタイプだと思う。白塗りの下に吉沢亮さんの骨格が確かに見え、重く纏った和装の下にも確かに吉沢亮さんの骨格が見えるのに。理解と目の前が一致しない感覚。目の前にいるのは吉沢亮さんなのにな➰
絶賛されている屋上のシーンをはじめとする、いわゆる闇堕ちの演技は、これぞ吉沢亮の真骨頂というやつだ。これをずっとやってきたじゃないか。なんだ世間は。今更気付いたのか。
役者、監督、製作陣の凄まじい執念を、
圧倒的な映像美をもって大衆に迎合されるエンターテイメント作品に仕立て上げた今作。
吉沢亮の芝居が、「国宝」という重みある響きと共に世間へ知らしめられることに、心からの感謝を。
ところで、
横浜流星さん演じる俊ぼんの怪猫は、どこで長尺を見れますか?